名古屋の裏風俗/大門の遊郭 中村遊郭

今回は名古屋の裏風俗について調べてみました。中村遊郭のちょんの間は絶滅しております。
名古屋の人ならご存知かもしれませんが、名古屋唯一のソープ街として知られている大門には「ピアゴ中村店」というスーパーがあります。
周辺は風情あふれる和風建築物がポツポツと立ち並びなんとも言えない哀愁が漂っています。

しかし反面ピアゴのど真ん中にはドーン!とソープランド店が立ち並び、なんともシュールな構図が特徴となっています。
子連れファミリーだと「あの店なに?」と聞かれて返答に困るでしょうし、ソープ利用客は買い物客の視線が気になり入り辛いでしょう。

このごちゃまぜ感が名古屋の特徴なのでしょうか。
わざわざ風俗街の大門でスーパーなんて…
という声が聞こえてきそうですが、これが時代の流れだから致し方ありません。

このピアゴ中村店が建っている場所こそ、当時東京吉原遊郭を打ち負かす程の規模を誇っていた「中村遊廓」の中心的な場所なのです。
当時組合事務所があった。
このエリアの特徴は、ソープランドがあるって事以外にも、その当時の遺構が数多く残っていたり(料亭稲本・松岡旅館など)、いかにも遊廓と言った区画エリアを見てとる事が出来ます。
中村遊廓は吉原遊廓を模して作られており、それは四隅に斜めに走る道が通り、その中身は碁盤目状の道路が敷かれ、郭の外周は幅二間(3.64b)の塀で囲んだ不等辺八角形の形をしており、外から妓を伺い知る事が出来ない様になっている事も全て吉原と同じとなっています。
ちなみに現在ソープ街として残っている大門以外に、中村遊廓時代から続く地名(寿町・羽衣町・日吉町・賑町)などもそのまま現存しています。
それら5つの地名全て合わせて「五丁町」とも呼ばれていたそうです。
まえがきが長くなってしまいましたが、このページでは名古屋風俗のルーツとも言える中村遊廓の歴史についてや、ちょんの間についても調べてみました。
裏風俗といえば援デリ

さて、名古屋の裏風俗ですが、現在は立ちんぼすら存在しません。
本番しているピンサロ店か出会い系で援交が支流となっています。
出会い系で援交には業者と呼ばれる援デリが存在します。
これはグループで活動しており、出会い系で男を集める呼び込み係と送迎係と、実際に男と寝る娼婦係に別れます。
小さく動いているとことは呼び込みと送迎を担っているようです。
業者の相場は15Kです。サービス内容は60分弱で本番あり。
ホテルの近くでの待ち合わせが多く、特にホテル近隣のコンビニ待ち合わせは業者です。
やっていることは立ちんぼと変わらず、呼び込みがネットになっただけです。
私も何度か援デリにはお世話になりましたが、レベルはチサンマンションぐらいです。

それよりも個人の割り切りの方がよいです。
個人で割り切りしている女性の方が素人感があったり長時間遊べたりと融通がきくのです。
写真の彼女は個人の女性です。
出会い系で知り合った女性ですがホテルで3時間ほど遊びました。

条件は15Kです。
本番こみで3時間遊べればコスパがかなり良いです。
ホテルの前で待ち合わせて対面後、1、2分会話をしお互い納得したらチェックインする流れなので安心でもあります。

聞けば、彼女は主婦でした。
30代前半で結婚して10年ぐらいだそうです。
家庭に刺激がないようで、たまに割り切りで男と会っているようです。
こっそり写真を撮影してきたのも、どのぐらいのスペックなのか知ってほしいからです。
デリヘル譲にもない素人感が良いのです。しかも清楚な主婦です。
かなり興奮しますよ。
この手の女性が集まるサイトを紹介しておきます。
名古屋で会えるサイトと言えば、最近ではワクワクメールやハッピーメールが会いやすいです。
今回、彼女と知り合ったのはハッピーメールです。
掲示板で女性の投稿から探すのではなく、掲示板に投稿して女性からのレスを待つ方が主婦と会いやすいですよ。
管理人が使っているサイトです

Jメール
人妻や30代のバツイチが多いです
ハッピーメール

ワクワクメール
長年愛用しているサイトなので間違いなく良質ですよ。
まあ援助とかパンツ売りとか多いんですけどね。月に3000円分ほどポイントを追加して遊んでます。
中村遊廓の歴史

中村遊廓が作られたのは今から97年前の大正12年4月1日。
実はそれ以前にも名古屋には徳川家康公時代の飛田屋町廓、徳川宗春時代の西小路遊廓、富士見原遊廓などがありましたが、どれも長くは続かず。
長らく公的な遊廓がなかった事から、江戸時代当時活躍していたのは百花(もか)と呼ばれる私娼(今でいう援交や立ちんぼ)が幅を利かせていました。
幕末期の安政5年、ようやく公的に役者・芸者を寄宿させる施設(北野新地)が作られます。
しかし「真面目」な方々からの横槍が入り、設置からわずか数年の1875年(明治8年)、大須観音の堂裏、堀川以東の5箇所へ移転させ「旭廓(あさひろう)」と呼ぶようになります。
翌年には工費8800余円を投じて女紅場(じょこうば。女性が習い事をする施設)が建設されるなどし、1905年(明治38年頃)にかけて全盛を迎える事となりました。
その当時、娼家173軒、娼妓1618人を数えたと記録されている事からもその繁盛ぶりが伝わってきます。
しかし都市化が進む名古屋において旭廓は大繁盛していましたが、その反面キャパ的に限界を迎えていました。
ここでも真面目な方々が「風紀的にどうなんだ?」と横やりが入り、そうした事から「移転」について論ぜられるようになります。
結果、南区稲永新田へ移転する事になりましたが、移転問題に絡む疑獄事件が発生。移転の話は立ち消えとなってしまいます。
紆余曲折あり「愛知郡中村(当時)」へ移転する事が決定しました。
1920年(大正9年)3月から整地がスタート。119700余円もの金を投じ、現在のピアゴ中村店付近に組合事務所が作られ、そこを中心として娼家群が作られました。
「中村遊廓」としての開業は1923年(大正12年)4月1日とはなっていますが、4月1日に一斉移転した訳ではなく、一部の業者は移転未了のままのスタートとなったそうです。
移転を果たし、更に客足は伸びます。全盛期は昭和12年(1937年)頃とされ、娼家138軒〜147軒、娼妓約2000人、一軒の抱え娼妓が13〜30余人を数え、吉原を抜き名実ともに「東洋一」の遊郭として全国に名を馳せました。
ちなみに昭和12年当時の全国の娼妓総数は44908人とアナウンスされており、全国の4.5%の娼妓が中村遊廓に集中していた事になります。
しかし日中戦争勃発により遊廓への客足も途絶える様になります。
追い打ちをかける様に日米開戦が勃発し、それが決定打となってしまい企業整備を余儀なくされる事となり、娼家19軒、娼妓は220人まで縮小される事となります。
休業中となった娼家は、三菱航空・三菱発動機などの軍需工場の寄宿舎、寮施設として使わる事になります。
戦争が激化すると本土へ飛来するB29の数も増え、中心市街地を標的とした昭和20年(1945年)3月12日未明・名古屋駅が燃えた3月19日午前2時・名古屋城を燃やした5月14日に行われた大空襲により、計55軒もの遊廓が消失してしまいました。
終戦後、焼け残った88軒の妓楼と843人の娼妓で営業がスタートします。
しかし客としてやってきたのは日本人ではなく、進駐軍の軍人でした。
アメリカ人軍人から高い評価を受け、残っていた店舗では対応しきれない程の盛況だったと言われています。
しかしそれも長くは続かず、1945年12月15日「進駐軍の登楼禁止令」が発せられ、客足が途絶えて中村遊廓は窮地に追い込まれる事となります。
更に追い打ちをかけるように、政府は公娼制度を廃止する為の「公娼制度の廃止に関する指導取締りの件」という通達を出します。
ですが、抜け道もきちんと残されており「特殊飲食店」とする事で従来の営業を許可される事となります。
中村遊廓の組合もそれに準じ「旭廓貸座敷組合」を「名楽園組合」と改称。
貸座敷を特殊飲食店に変更、「娼妓」を「芸妓」と改称し、1946年には特殊カフェーへと改称して「赤線」として存続する事となりました。
しかし昭和33年(1958)の「売春防止法」の完全施行に伴い、妓楼は旅館、料亭、特殊浴場(トルコ風呂。現在のソープランド)などに転業を余儀なくされる事となります。
(旅館40軒、トルコ風呂10軒、飲食店20軒)
名楽園組合も解散し、新たに新名楽園組合が組織されますが同一営業形態ではなかったのでルールもバラバラになり、それが更に衰退を早める事となってしまいます。
売防対策で自主廃業した店舗も多く、旅館に転業したものは客が付かずに開店休業状態に陥ります。
その為、大半が旅館許可を返上したり店を閉ざす所もあったそうです。そりゃそうですよね。
21世紀に入っても数軒の旅館が残っており、懐古趣味なマニアたちから珍重されていましたが、建物の老朽化により今は全滅してしまいました。
ソープランドは現在8軒が営業していますが、同じ東海地方ソープ街として比較される岐阜の「金津園」とは雲泥となっています。
現在大門に残っているソープランドも条例の締め付けにより、新規出店はおろか、改装も出来ない事となっています。
これだけでも十分なダメージなのに、更に最近の若者の風俗離れなどにより、今後更に厳しい状況が続く事が用意に想像出来ます。

減る事はあっても増える事はまずあり得ない事から、名古屋からソープランドが消滅してしまうのはそれ程先の話ではないかもしれません。
歴史ある貴重なリフレッシュスポットが少しでも長く続くように祈っています。
名古屋の裏風俗/ちょんの間

名古屋のちょんの間を探しの方には残念ですがちょんの間は絶滅してしまいました。
そもそも「ちょんの間」を知知らない人の為に簡単にご説明したいと思います。
ウィキペディア的に説明するとすれば「元赤線・青線で営業している性的サービスを提供するお店」という事になります。
これだと堅苦しいので、もっと直接的に表現すると「本番(セックス)出来るお店」となります(爆)
当たり前ですが、現在の日本においてちょんの間は「違法」となります。
しかしそんな違法のちょんの間としてなぜか現在でも平気で営業を続けているのが大阪にある「飛田新地」です。
あの橋下徹「元」知事も飛田のお世話になったとかなっていないとか?
実際、彼が弁護士だった時代、飛田新地組合の顧問弁護士だったとすっぱ抜かれて話題となっていました。
一般的に「ちょんの間」は風俗店としてではなく、表向きには料亭や旅館として営業しています。
客は料亭で料理でも食べようと店に入ります。
すると可愛い仲居さんに一目惚れ!笑
一瞬にして「恋に落ち」、恋に落ちた男女がナニするのか?と言いますと「セックス」しかナイわけで?
料理も食べず「仲居」を激しく求める男性客。
しかしそんな色恋沙汰もわずか20分程で終了となります(ちょっとの間にヤるからちょんの間)。
最後に料亭っぽい事も必要だとお茶とお菓子(駄菓子)を手渡され、男性客は店を後にします。。
まぁそんな流れで「売春防止法」をかいくぐって営業を続けている訳です。
先程の橋本「元」知事も顧問弁護士の件を突っ込まれた時に「飛田はあくまでも料亭で違法ではない」とすっとぼけて逃げましたから大したものです。笑
さて、そんなちょんの間がここ名古屋にあるのでしょうか?
答えを先に言うと、名古屋にちょんの間は存在しません。
実は10年以上前に「深夜の大門周辺でヤリ手ババアが出没する」という都市伝説がありました。
しかしその当時からすでに胡散臭い内容であり、出てくる女性もお化けレベルだと言われていたので、私の周りでも実際に試した人間はひとりもいませんでした。
豊橋の裏風俗「小池遊廓」

愛知県全域に話を広げると、名古屋から80キロ離れた「豊橋市」の有楽町にあるらしい?です。
豊橋にも遠く昔に「小池遊廓」があり、戦後は赤線となって現在も貴重な妓楼が数軒現存しています。
ノスタルジーを求める人にとっては最高の素材となるかもしれませんが、「それ以上」を求める向きには止めておいた方が良いしれません。

期待して行ってはダメ。嬢はいない。婆しかいない。建物同様に皆古い。
2020/01/05 14:26 (引用:爆サイ)
写真を見ても口コミを見ても、若い女性がいるようには到底思えませんね。
昭和の前の大正、明治期に建てられえたような建造物です。入るのも怖いです。
それでも良いと言う人は体験談をこっそり私に教えて下さい。笑
まとめ

裏風俗でエロを楽しむより、同じコスパで普通の女性と割り切りでセックスする方が安心して遊べます。
業者はピンサロレベルですが素人は最高ですよ。

出会い系で、ごく普通の主婦の割り切りを見つけたら是非とも会ってみてほしいです。
先ずはラブホの近隣で待ち合わせます。
相場は15Kでラブホに入る前に条件なども確認しておきましょう。
融通がきかない、変な女なら断っても構いません。
セックスレスなどで他人に刺激を求める主婦は意外に多いのです。
この手の女性を見つけるのをオススメします。リピート次第ではタダマンも可能です。
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Jメール
人妻や30代のバツイチが多いです
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ワクワクメール
長年愛用しているサイトなので間違いなく良質ですよ。
まあ援助とかパンツ売りとか多いんですけどね。月に3000円分ほどポイントを追加して遊んでます。






